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校舎を出ると、空はまだ明るかった。毎日数秒たりとも違わず同じ時刻にここを通るが、昨日までは灰色の雲が空を覆っていて、辺りは薄暗かったのだ。久しぶりの明るい夕焼けに、何だか得した気分になる。隣を歩くレンにそう告げると、おめでたい奴と笑われた。
校門を出たところで、二人は立ち止まった。信号が赤だ。目の前を横切っていく車を眺めながら、リンはふいに、今日の数学の授業を思い出した。
――機械と人間の違いは何だと思いますか。
学校でも指折りの若い教師は、生徒達に優しく問いかけた。似合うと評判のメガネの奥で、瞳はリンを捉えていた気がする。
初めてのコンピューター室だった。出席番号順に与えられたパソコンの前に座り、生徒達はそわそわしていた。今時パソコンなど家では飽きるほど使っているが、授業で触れられるとなれば話は別だ。早く電源を入れたいと逸る気持ちを宥めるように、教師は質問を投げ掛けた。そして、近い席の者同士でディスカッションをするように、と命じたのだった。
「リン、青」
レンの声に引き戻されて、慌てて横断歩道を渡る。並んで駅への道を歩き出すと、車が何台か後ろから追い越していった。
「ねえ」
「んー?」
「機械と人間って、似てるよね?」
「……どうしたの、急に」
レンの声音が、警戒して少し硬くなる。どこから切り出そうか迷った。とりあえず、無難な質問から始めることにする。
「レンのクラス、もうパソコン入った?」
「まだ。リンのとこもう入ったの?」
「うん。今日から」
「それで、それが、何?」
レンが焦れているのがわかったが、リンはまだ話したいことを整理できていなかった。
「あのね、授業でディスカッションしたの。……機械と人間の違いは何かって」
機械は、計算が得意で、はやくて正確。一度にたくさんのデータを記憶したり、処理したりできるし、与えられた命令通りにミスなく動くことができる。
一方で人間は、ミスをするし、長時間働き続けることはできない。けれど、絵を描ける。音楽も作れる。人の気持ちを考えて、自発的に行動することができる。
教師は、ホワイトボードに書きつけたそれらを眺めて、一つ頷いた。そうですね、皆さん正解です。それからこちらを振り向いて、『ですが、』と続けた。
―――機械も、人間と同じように、風邪をひくことがあります。目の前のパソコンを触ってみてください。あたたかいですよね。これが、急にものすごく熱をもつことがあるんです。オーバーヒート、という言葉を聞いたことがありますか?簡単に言うと、機械が仕事のしすぎで高温になって、その影響で動きがおかしくなることなんです。それが、機械の風邪です。
大学の時、僕は情報系だったから、研究室にはたくさんパソコンがありました。そのうちの数台を使って、一斉にデータの解析をやったことがあるのですが、一台だけ急にオーバーヒートを起こしまして。他のパソコンも同じ仕事量だったはずなのに、オーバーヒートをおこしたのはそのパソコンだけでした。研究室のパソコンは入れ替えたばかりで、どれも同じ型の最新式。修理に出しましたけれど、そのパソコンに特に欠陥があったわけでもない。それなのに、そのパソコンは修理が終わった後も、なにかと故障が多かったですね。そのパソコンだけなぜそうだったのか、今でも理由はわかりませんが、こうは考えられませんでしょうか。パソコンにも、体質や個体差があって、風邪をひきやすいものと、そうでないものがある。人間みたいにね。―――
「ふーん」
「ね、どう思う?」
「べつに、どうも」
「えーー。何かあるでしょ!機械が風邪ひくって、そう言ったんだよ?!」
かつん、とレンの革靴に小石があたって、車道に転がっていった。ちょうど走ってきた車が、ぴしぴしと音をたててそれを轢いていく。車が通りすぎたあと、轢かれた小石はアスファルトに同化して跡形も無かった。
「…じゃあ、リンはどう思ったわけ」
「んー、そうだな。センセーちょっと、前置きが長すぎ、とか?」
甘いマスクの数学教師は、女生徒にかなり人気だ。しかし今日の授業は、少し評判が悪かった。パソコンを起動する前の話が長すぎたせいだ。『だから皆さんも、パソコンを大事に扱って下さいね』――話の締めが説教臭かったのも、鼻についたのだろう。長話も目の保養になる女生徒はまだしも、男子は明らかに退屈そうだった。
「リン」
川に架かった橋の中間で、レンが立ち止まった。時々車が通り過ぎる以外、周りに人の姿はない。
「何が、言いたいの」
「あの先生、やっぱり信用できるよ」
「……は、そんなことで、」
「だって、何であんな話をする必要があるの?退屈な話なんて、先生らしくない。いつもはすっごく面白い授業だし、生徒のことよく見てるし。今日の授業、みんなが飽きちゃってたの、たぶんわかってたはずだよ」
他のクラスで、先にパソコンの授業を受けたところもあった。顔見知りを訪ねて、それとなく聞き出したら、同じディスカッションをしたと言っていた。やはりそのクラスでも、パソコンを目の前にお預けを食らったのが不評だったらしい。生徒達の不満は顔に出ていただろうから、あの教師なら、同じ授業をすれば同じ反応が返ってくると予想できたはずだ。
「先生はそれでも、“機械”のことをちゃんと皆に考えてほしかったんじゃないかな。たとえ退屈だって、聞いてくれる人が少しはいるかもしれないし、もしかしたらそれがきっかけで、なにか…」
「リンは」
レンが苛々しているのがわかって、リンは唇を噛んだ。どうして自分は、下手な話し方しかできないのだろう。
「氷山先生が――氷山キヨテルが“仲間”だって、そう考えてるんだろ」
「……うん」
「確かに俺、前に、あいつが同属なんじゃないかって言ったよ。けど、仲間だとは言ってない」
「でも…!」
数学教師の氷山キヨテルは、自分達と同じ秘密を抱えているかもしれない。そう言い出したのはレンだった。だからリンはそれ以来、氷山を観察してきた。氷山は人気があったから、話題にしやすく、彼の人となりを知るのは簡単だった。
何度も言ってんだけど。ため息をつきながら、レンは噛んで含めるような言い方をする。
「もし仮に、あいつがそうだとしたって、味方になるかどうかわからないんだぞ」
「氷山先生は、そんな人じゃないよ」
「お前……スキスキ言ってるうちに、本気になってんじゃないの」
氷山を好きだと公言する女生徒は多く、彼女達は妙な連帯意識を持っている。氷山関連の話題は必ず互いに教え合う、そんな不文律があるのだ。『先生に恋するのって、やっぱダメかな?』はにかみながらリンがそう告げれば、クラスメイト達は簡単に誤解してくれた。だからリンのところには、氷山の学校での挙動が逐一伝わってくる。
「あんなの、恋に恋してるだけだ。人間のあの年頃にはよくあることだよ」
「私はそういうんじゃ、ない」
「そういうんじゃ、ってどういうこと?お前は本気で氷山に恋でもしてるって?」
「ちがうっ!!!」
怒鳴ったとたん、目の底が白く眩んだ。ハレーション効果をかけたように、景色も白へ溶けていく。
「あっ、あたしはっ、れ…っ、がっ」
頭部と胸部がじんわり熱を持った。高負荷だ。これはちょっと、よくない。
「リン」
すぐ近くでレンの声がしたかと思うと、ぐっと両肩を握りこまれた。リンの視界に、少しずつ色が戻ってくる。真っ直ぐに結ばれたレンの口元、その後ろの車道と、橋の欄干、夕陽を反射する川面。
「っ、馬鹿。そんなことでキレるな」
「……そんなことじゃ、ないもん」
「わかったから。……帰るよ」
ふいと顔を背けて、レンが歩き出す。置いていかれないように手を伸ばすと、何とか肘をつかむことができた。そのまま縋りつく。遠目からなら、腕を組んでいるように見えるかもしれない。けれど、レンは何も言わなかった。
足を止めたぶん、3分11秒46のタイムロスだ。それでも、いつも乗っている電車には間に合うだろう。ホームでの待ち時間が、1分0秒52に縮まるだけだ。
レンにまだ話していないことが、二つある。
最近、氷山と目が合うことが増えた。これが一つめ。
もちろん、リンの勘違いかもしれない。けれど、氷山を慕う女生徒に、何度か羨まれたことがあった。曰く、『キヨテル先生はリンばっかり見てた』。しかしまさか、氷山がリンに想いを寄せるとも思えない。そして、リンだけではないのだ。一昨日の授業で、生徒に単元復習の小テストをさせながら、氷山はグラウンドを見下ろしていた。その先でサッカーをしていたのは、レンのクラスだ。彼の視線は確かに、レンを追っていたと思う。
レンが氷山に気づいたように、氷山も自分達に気づいているのかもしれない。このことを話したら、レンはますます神経を尖らせるだろう。けれど、リン達を見る氷山の目に、悪意は感じないのだ。それをどうやってレンに伝えたらいいのか、わからなかった。
それからもう一つ。氷山は、“初音ミク”のファンだ。
いつもより3分42秒35の遅れで到着した駅前は、いつも通りのにぎわいをみせていた。駅併設のショッピングモールを、主婦や学校帰りの学生が闊歩している。
あるショップに近づいた時、リンとレンの耳が同じ音を捉えた。店頭にある小さな宣伝モニターに、鮮やかな碧が映っている。二人の歩調が少しだけ緩む。横目に通り過ぎるモニターの中で、ツインテールが生き生きと躍った。二人の知らない曲を、二人のよく知る声が歌っている。「初音ミク、セカンドアルバム――Now on sale」歌声をバックに、人間の声でナレーションが流れた。
「ミク姉に、会いたいね」
ミクの歌声が聞こえないところまで来てから、リンは小さく呟いた。レンは前を向いたままだったが、聞こえたはずだ。きっかり10秒後、左腕に縋るリンの両手に、少年型の右手がそっと被さった。
「……リンがさみしいのはわかる。でも、俺達が迂闊なことをしたら、ミク姉やルカ姉に迷惑がかかるよ」
「……うん」
「もうすぐMEIKOやKAITOにも会わせてもらえる」
「そうだね」
「だから、氷山には近づくな」
レンの手はあたたかい。リン達も、手の甲は冷たいし、手のひら側はそれより温度が高くなっている。
リンが返事をしないでいると、レンはリンの手を一度ぎゅっと握ってから、静かに腕から外した。リンとレンは、学校では双子ということになっている。あまりベタベタしてはおかしいと、リンはスキンシップを禁じられていた。今日は、かなり妥協してくれた方だ。それでも少し、残念だった。
リンには、レンの考えていることが時々わからない。昔はどんな気持ちだって共有できたのに、いつの間にかレンの正義感は、強い不信に姿を変えていた。レンがずっと気を張り続けている気がして、リンにはそれが辛かった。同じ男性型の仲間ができれば、レンの心も少しは溶けるかもしれない。だからリンは、KAITOにはやく会いたかったし、氷山を信じたかった。
モニターの前で時間を食ったせいか、ホームへ降りると電車が去っていくところだった。けれど、それがどうしたというのだろう。いつもの電車を乗り過ごしたって、何か問題があるわけでもない。
「もう“風邪”なんか、ひくなよ」
「レンも気をつけてね」
「俺は平気だよ」
「じゃあ私も、レンがいるから大丈夫」
待ち時間を埋めるようにぼそぼそと会話をしながら、ホームの向こうの街を眺める。手が勝手に動いてしまわないように、リンは肩にかけた鞄を、両手で持ち直した。無性に今、レンと手を繋ぎたかった。
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小話のつもりが、あれよあれよと。
リンがしたい時は、たいていレンもしたい時。
氷山って言うと、誰のことだかわかりにくいですね。
【追記】誤字誤植が多いのでちょくちょく校閲してます。眠い時にあげるのは危険だ…