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ローテーブルに置いたヘアピンを手にとって、けれど、金属製のそれで濡れた髪を挟む気にはなれず、結局もとの位置に戻した。そういえば、黒リボンがない。カーテン越しに透ける朝日だけが頼りの薄暗い部屋を、ぐるりと見渡す。ガラスのローテーブルと、その下に敷くラグ。几帳面にピース楽譜の並んだラック。壁に寄せられたそっけないベッド。どこにもそれらしきものは見当たらない。ベッドと対角にある楽器置きのスペースにもざっと目を通したけど、あるはずがなかった。触ると怒るし、その気持ちは私も少し分かるから、近寄らないようにしている。
となると。ベッドに膝をついて、身を乗りだす。壁とベッドの隙間へ手を差しこんだところで、後ろから声がかかった。
「なにしてんの」
答える前に、目的のものを探り当てたので、引っ張り出して掲げる。私の手に握られた黒い布切れを認めて、彼は片眉をあげるにとどめた。納得してもらえたようだ。救出した黒リボンは、少し皺が寄っているものの、埃一つ付いていなかった。感心なことに、部屋の隅まで掃除が行き渡っているらしい。大雑把に見られがちな私達だけど、お互い、妙なところが几帳面だ。
「ドライヤーは?」
「ない」
そう言って、タオルで無造作に髪をかき混ぜる。普段はワックスで立ちあげている前髪が、かき混ぜた勢いで同じくらいに立っている。
「まだ買ってないの」
「あー……なんかさ、自然に乾かす方が髪に良い気がしねぇ?」
前言撤回、やっぱり大雑把だ。ヘアワックスは何種類も揃えているくせに。
「濡れた髪は、すぐに乾かさないと痛むって、前に教えたでしょ」
キューティクルがどうだか、私も詳しいことは分からないけど、女子としてそのくらいの知識はある。……いや、あの子に教えられなかったら、私も知っていたか怪しい所だけど。それでも教えられてからは、なるべく早く乾かすようにしていたから、濡れたままの今の状態は気持ちが悪い。この部屋の主が持っていないとなれば、あとは少しでも早く自然乾燥することを願うばかりだ。幸い今日は、気温が高い。
「ブラシ貸して」
「どーぞ」
了承を得て、脱衣所に入る。シャワー後の湿気がバスルームから流れ出て、むわりと私を包んだ。
洗面台の鏡の裏から、櫛とブラシを拝借する。乾かすことはできなくても、少しくらい整えた方が良いだろう。適当に撫でつけると、鏡の向こうの私は、いつもより大人しげに見えた。外ハネする髪が落ち着いているせいだろうか。なんとなく、あの子を思い出す。同じ顔でも、あの子の髪は私より細く繊細で、さらさらとしている。普段はサイドで結っているけれど、下ろしたところを一度だけ見たことがある。
「なぁ、今日どうするー?」
少し大きめに張った声で、我にかえった。鏡の裏に借りたものを戻す。黒いリボンもヘアピンも付ける気になれず、たたんでまとめてポケットへ押し込んだ。
「今何時?」
脱衣所から出ると、クロゼットを物色していた相方が私を――正確には、私の背後の壁に掛けられた時計を振り返った。
「10じ……や、10時半だな」
同じように振り返った私の目にも、長針が右下に傾いているのが確認できた。朝だと思っていたけど、どちらかと言えば昼だ。もうそんな時間になっていたなんて。
「収録までは時間があるわね」
「腹減ったな」
確かに。朝食を抜くのはめずらしいことではないけど、さすがにこの時間になればお腹はすく。
「昼メシめぐんでもらう?」
「いいけど……」
あの子達の作る料理は美味しいから、諸手をあげて賛成したいところではあるけど、毎回おしかけては迷惑な気もする。
ベッドヘッド側の出窓に寄って、カーテンを少しめくると、まぶしい日光が僅かに射して目を刺激した。薄暗い不健康な部屋を消毒すべく、一気にカーテンを引く。
「……うわっ」
ワンテンポ遅れて、低い声が呻いた。明るくなった部屋に驚いたにしては、タイミングがずれている。金髪を日光にきらめかせた横顔は、クロゼットに付いた小さな鏡を覗き込んでいるようだった。
「お前、これ……」
やがて顔をあげて、彼は指先でトントンと喉のあたりを叩いた。
「つけただろ」
「……」
長い指で示された場所に、小さな痣のようなものがある。曲の歌詞で喩えるなら、紫蝶々、か。記憶にない。だけど、少なくとも昨日の夕方にはこんなものはついていなかった。彼の白い肌にはよく目立つから、もしあったらすぐに気がついたはずだ。つまり、犯人は私だ。覚えてないけど。
「どうすっかな」
ため息をつきながら、再び鏡を覗きこむ。黄色いタイをきつめに締めて、黒い襟をめいっぱい高くしてみても、隠れる位置ではなかった。明るいところで少し顔を上向きにすれば、すぐに分かってしまう。
「つけたつもり、なかったんだけど」
覚えてもいないことを謝るのは面白くない。気恥ずかしさも手伝って、出てきた言葉は言い訳めいていた。横顔が苦笑する。その表情の柔らかさから、私を責めたいわけではないと分かった。
「そんなに必死だった?」
けれど続いた台詞に、私は思わず枕を投げた。手でガードされて、床に落ちる。
「ごめん、怒るなよ。それに――――」
笑ったままの口元が、何かを低く呟いた。聞かせるつもりじゃなかったんだろうけど、私は正確に聞きとってしまって、顔から火が出た。そんな言葉、柄じゃない。もう一度投げてやりかったけど、生憎、枕は一つしかなかった。
「……近くに薬局あったっけ」
「歩いて5分くらいのとこに、あるけど」
記憶はなくとも、多少責任を感じる。さっきからの態度は癪にさわるが、このあとの収録を考えれば知らんぷりはできない。
「コンシーラー買いに行くから、場所教えて」
「なにそれ」
「化粧品。たぶんそれで、隠せると思う」
相方は少し考えた後、クロゼットから何か取り出して、首に巻きつけた。
「俺も行く」
夏物の生地だけど、スカーフというよりマフラーとでも言うべき長さだ。どこぞのアイス好きを彷彿とさせる。似合わないわけでは、ないけれど。
一緒に行くのは彼の中では決まったことのようで、ケータイと財布をポケットにつっこんで、さっさと背を向ける。バッグをつかんで追いかけると、玄関に向かう背中が途中で脱衣所へ逸れた。洗面台を開け閉めする音が聞こえて、出てきたときには人差し指に黒いゴムを引っ掛けていた。
「で、メシどうする?」
ゴムをくるりと回して、問いかける。湿った髪を低い位置で括るのを眺めていたら、同じ顔をしたもう一人の顔がよぎった。あの子の相方だ。
「……今日は、外で」
「ん。まぁ、そうだな」
たとえコンシーラーで隠せたとしても、めざとい彼のことだ、見咎められるかもしれない。あの子の情操教育上どうのといらない注意を受ける可能性もある。それは面倒だ。同じことを考えたのか、私の相方は、今度は少し引き攣った苦笑を見せた。
玄関を出ると、真っ青な夏空が目にしみた。余分に巻いたマフラーが暑苦しそうで、ちょっと申し訳なくなる。湿ったままの前髪はいつもより大人しい。そのせいか、笑った顔がいつもと違って見えた。目が眩んだ気がして、私は慌てて視線を降ろした。アスファルトに色濃く落ちた二人分の影を見つめて、意識的に瞬きを繰り返す。
「リボンがないと、雰囲気が変わるな」
休ませた目を再びあげると、相方は似たようなことを言って目を細めた。やっぱり、陽がまぶしすぎるのだ。リボンを外した私も、ワックスを落とした彼も、お互い見慣れているはずなのに。
並んで歩きだす。強い日射しとは裏腹に、涼しい風が吹いた。隣でマフラーの端がゆれて、私の剥き出しの腕を撫でる。まずは薬局。次は、ジャンクフードでも食べに行こうか。美味しい和食にも未練はあるけれど、たまにはこんな日も悪くない。
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気がつけば藍蘇がチラついている謎の。
腹黒なのに指一本触れられない鉄さんだったら面白い。
紫蝶々の正体は、言わなくても分かると思っているんですが、どうでしょう。
ところで、いま「むらさきちょうちょう」を変換したら「村崎町長」と出ました。誰。