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目を開くと、傾斜のある天井についた小さな天窓は、まだ紺色だった。体が痛い。嫌な夢を見た気がするが、内容は覚えていなかった。身を起こし、寝台の寄せられた右側の壁をコンコンと叩く。返ってきた沈黙に眉を潜めかけて、一気に覚醒した。
そうだった、今は叩く意味などないのだ。
背後、つまり寝台の頭側から、しんしんと冷気が伝わってくる。確かそちら側にはガラス窓がついていた。この冷えだと、雪になるだろうか。それとももう降っているのか。先程起きがけに見てしまった小さな天窓には、確か雪は積もっていなかった。
化粧台の浅い桶に水瓶から水を注ぐ。急いで目を閉じて桶に手を入れると、冷たい水が肌をさした。
「……つめたい」
『冬だからな』
我慢して何度か顔に水を掛け、なるべく下を向きながらタオルに手をのばした。そのまま化粧台に背を向けて着替える。
屋根裏を二つの部屋と廊下に分けただけの、小さな部屋。寒い地域では宿屋の三階にこういう部屋があることが多い。積もった雪で建物が潰れてしまわないよう、屋根を急にして雪を落とすのだ。そのため屋根が高く、余ったスペースを割安の狭い部屋にするのだと、いつか得意気に説明していた。
体力が回復していないことは自覚していた。二人分の荷物を背負っているからだろうか、ここのところ眠っても疲れが抜けない。
「これ……捨ちゃおうかな」
無駄な時間を使っている暇はないのだ。少しでも道を稼ぐためには、体にかかる負担は少ない方が良い。使い手のない荷物は早急に捨てるべきだった。
支度を終えて階下に降りると、よく肥えた婦人が帳簿から顔をあげた。
「お客さん、早いねぇ!昨日着いたのだって夜遅かっただろ。もう出るのかい?」
「……急ぎなので」
「そうかい。若いのに大変だねぇ。そうだ、ちょっとお待ちよ」
そう言って、豊満な体が扉の奥に引っ込む。しばらく待たされ、少し焦れた頃になって、また扉が開いた。何か包みを持っている。
「ほら、これを持ってお行き」
差し出されたのは、油紙に包まれた簡単な食事のようだった。包みは湯気で湿って暖かく、焙ったハムの匂いがする。ピスタ、だろうか。ハムや野菜を刻んで炒めて袋状のパンに詰めたものを、この地域ではそう呼ぶのだと、言っていた。ほんの数日前に。
「悪いね、朝食の支度はまだだから夕べの残り物だけど」
「……ありがとうございます」
あまり食欲がなかったが、好意を無下にもできない。素直に受けとって鞄に入れ、口をしっかり結びなおす。紐の先についたト音記号の飾りが揺れた。
「あれ、嬢ちゃん。リボンが曲がってるよ」
太い腕がリンの頭に伸びて、頭のリボンを解きにかかる。驚きで一瞬身動きが取れず、断る間も無かった。大人しく、されるがままになる。背伸びはしないんだなぁと、ぼんやり思った。
「ほれ、できたよ。女の子は可愛くしなきゃね」
「ありがとう、ございます」
最後にぽんと、軽く頭を叩かれる。手が暖かかった。呵々と気持ち良く笑う婦人に、上手いお礼の言葉が見つからない。仕方ないので、できるだけ丁寧に頭を下げてから、宿を出た。
空が低い。灰色の雲が、こちらを圧迫するようにのしかかってきて、息苦しく感じる。まだ雪は降っていなかったが、フードを被った。この方が暖かい。
朝の冷気にすくむ足を叱咤し、リンは歩き始めた。今や、事の重大さを知っているのは自分だけだ。ミクやルカに出した手紙が届くのはいつ頃だろう。一刻も早く着いて、彼女達が来るまで持ちこたえなければ。
道の角を曲がる前に、もう一度だけ先程の宿を振り返る。人の良い女将さんだった。あの人ならば或いは、捨てずに保管しておいてくれるかもしれない。リンは部屋に置いてきた鞄を思い浮かべた。いま自分が提げているものと同じ形だけれど、それより幾分傷の多い鞄。底の方には、破れ目もある。いつか穴が空いてしまったのを、リンが縫い直したのだ。それと、口の紐の端にぶら下がるヘ音記号。自分の手で捨てることは、できそうになかった。
帰りには、必ずあの宿に寄ろう。その小さな決意が、背中を少しだけ押してくれる気がした。
次の街に着いたのは夜中だった。荷は軽くなったはずなのに、予定よりかなり遅い到着になってしまった。午後になって降り始めた雪が、リンの足取りを重くしたのだ。
メインストリートらしき道には人っ子一人おらず、両側の店のショーウィンドウも全て明かりが消えていた。それでも、雪明かりとまばらについた店先のランプで、足元は辛うじて判別できる。
こんな深夜に戸を開けている宿を見つけるのはなかなか骨だ。
『まったく、リンは計画性がないなぁ』
「そうだね」
『ちゃんと計算して道を選ばなきゃ』
「でも……急ぎだし。これが最短距離なんだもん」
『だからって、この季節に野宿なんてしたら凍死するぞ』
「うん、そうだね」
『死んだら本も子もないだろ』
「……うん、ほんとに、そうだね」
肌の剥き出しになった手首が、耳が、千切れそうだった。足元がきゅっと音をたてる。滑って身体が傾き、片膝をついた。暗くて段差に気付けなかったのだ。いつの間にか、灯の入ったランプの少ないあたりにきている。風がでてきた。粉雪が拡散して視界が悪い。リンはのろのろと立ちあがった。少し離れた次のランプを目指して、ひたすら進む。
疲れていた。はやく宿を見つけて身体を休ませなければ。不用意に体調を崩して時間を無駄にするわけにはいかないのだ。
風が吹いて、雪が舞い上がる。思わず目を瞑って、再び開いた時、リンははっと息を呑んだ。
目指すランプのすぐ下、店のドアの脇に佇む、リンとお揃いのマント姿。
「……レンッ!!!」
雪に足を取られながら、駆けた。向こうもこちらに気づいて、走ってくる。お互いに手を伸ばして、あと少し――触れそうな指先を、ガツンと冷たい壁が阻んだ。
叩きつけた手のひらの痛みは感じなかった。はずみでフードが落ち、白いリボンが現れる。レンじゃない。そこにいるのは、ガラスに映った自分の姿だ。
「……ン。レン、レンレンレンレン……!」
大きなショーウィンドウで久しぶりに見る自分は、酷い顔をしている。鏡もガラスも、水面でさえ、なるべく見ないようにしていた。だって、こんなに似ている。リボンを毟り取って、リンはガラスに縋りついた。食い入るように見つめても、何度名前を呼んでも、どんなに大声で叫んでも、答えは返ってこなかった。ここ数日、頭の中にいた『レン』も、もう何も言わない。馬鹿な妄想だと、自分でも分かっていた。
「……そつき…………嘘つき……っ」
どこにも行かないって、約束したのに。
先に行けとリンを突き飛ばしたあの手を、裏切りたくない。それなのに、もう一歩も動けそうになかった。
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シリアス展開っていいよね。
確か、これを思いついちゃったからフロンティアを書き始めたんだったような。
この後、誰か仲間が合流して、リンは何とか立ち直るんです。徐々に仲間が集まって、決戦の場に向かいます。で、戦いで絶体絶命のピンチに立たされた時、彼が颯爽と登場して、リンを救うんですよ。妄想って楽しい。シロセは多分ハッピーエンド主義です。