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すっかり忘れていた。レンと二人きりのカラオケが、こんなに楽しいものだったなんて。
音程を外しても、サ行がいまいちでも、鼻声でも、リズムがとれていなくても。誰も咎めないし、誰にも気兼ねしなくていい。一人で歌うのに近い感覚だけど、何故かそれ以上に開放的な気持ちでいられる。外の世界をシャットダウンした密室は、水の中を泳いでいるみたいに心も身体も軽くて、居心地が良かった。
アップテンポな曲を立て続けに入れてかなり飛ばしてしまったから、今はお互いバラード系で小休止というところだった。お酒に酔ったのか歌に酔ったのか、ほどよい疲労感が全身を包んでいる。ソファに体重を預けてまったりマイクを傾けていたら、ふいにずしりと肩に重みがかかった。でも、すぐに軽くなる。
「……りん、ごめ」
体勢を立て直したレンが、ふるりと頭をふった。落ちてくる瞼と、必死に戦っているようだ。
「レン?眠いなら、寝ていいよ?」
幼い仕草に庇護欲をくすぐられて、私はレンの肩をひいた。少し力を入れたくらいではびくともしないから、ついムキになって強引に引っ張る。重い身体が傾き始めたら、あとは簡単だった。レンの頭を自分の膝に着地させ、手の中から抜き取ったマイクをテーブルに置いて、出来上がり。ついでに私もマイクを置こうとすると、力の入っていない手が、ゆるゆるとそれを止めた。
「りん、うたって」
「何よ、子守唄?仕方ないなぁ」
膝の上に荷物があると何となく安心するのは、どうしてなんだろう。レンの頭はちょっと重くて、暖かかった。収まりの良い位置を求めてもぞもぞ動くから、スカート越しに感じる髪の感触がこそばゆい。
頭を落ち着けたレンは、時折うとうとと瞬きながら、カラオケの画面をぼんやり見つめていた。曲の続きを歌い終えて、まだ歌う?と訊ねると、ん、と肯定が返ってくる。
「れんってば、こどもみたい」
「うん」
いくら眠そうでもこんなレンは見たことがないから、やっぱり、お酒のせいなんだろう。お酒が入ると甘えたくなるなんて、女の子みたい。すごーく、かわいい。なんだか無性に愛しくなって、堪えきれずに私はレンの柔らかな金髪へ手を滑らせた。そのままゆっくり梳きながら、何曲か歌う。歌っているうちに、レンの指が私の膝へのびた。スカートの裾のレースを、指先に絡めて遊ぶ。
後で思い返せば、引き返すならこの時だった。母性本能に満たされたはずの心へ、ほんの少し違う色が紛れ込んだことに、本当は気がついていたんだけど。
レースを弄っていた手が、するりと剥き出しの膝へ滑った。膝の形を何度もまるくなぞって、それからゆっくり引き返す。戻ってきた指がスカートの端にたどりついたところで、私は片手を動かした。指が再び動き出す前に、手探りで捕らえる。歌うことは止めない。けれど画面に流れる歌詞を追いかけながら、私の意識の半分は、別のところに集中していた。
歌声に紛れて、レンが低く唸った気がする。重ねた手を少しずらして指の間へ指を忍びこませると、レンの手はそれを拒否して、私の手の下から逃れていった。前を向いたまま、聴き慣れた曲に声をのせる。その一方で、半分になった意識が、からっぽの手を寂しく思う。
膝の上に揺れを感じて、レンが大きく身動ぎしたと分かった。思わず視線を移すと、仰向けのレンと目が合う。その瞳の色を読み取る前に、レンはふいと顔を逸らして、鼻先を私のお腹に押し当てた。視線を引き剥がす。顔をあげる。途切れかけたメロディを、喉から押し出す。私の着る薄手のニットは、レンの吐息を余すことなく溜めこんだ。お腹が熱い。
レンの手が腰に回って、背中を伝ったはずだけれど、その過程はあいまいにぼやけて、よく覚えていない。いつの間にか、私は正面から抱き締められていた。肩越しに見下ろす床に、マイクが転がっている。
りん。嘆息が私の名前を呼んだ。半分の半分の、さらに半分――欠片ほどになった意識の隅っこで、同じ声が囁くのを聞く。
「ほてる、いこ?」
ああ失敗した。そう思った。私が悪い、とも。女の子みたいなんて、嘘だ。レンはちゃんと男の子なんだから、私が気を付けてなきゃいけなかったのに。
ラップをかけた朝食の皿と、3枚のレシートを入れた小さな封筒。その横に、薬を据える。書き置きしなくても、ラベルを見れば分かるだろう。救急箱の蓋は閉じて、キッチンの戸棚の上へ戻しておく。
レンが起きてこない。私よりお寝坊なんて、珍しかった。家にはもう、他に人がいない。時計の針を確認し、私は諦めて廊下に出た。ほんの数時間前に着いた玄関から、また出掛けるのだ。用事がなければ、私も一日寝ていたかったんだけど。
靴を履こうと屈むと、まともに寝ていない身体が少しだけ軋んだ。ブーツからブーツキーパーを抜いたところで、はたと手を止める。いけない、これ、昨日履いたんだっけ。靴は一日履いたら休ませる、というルカ姉の教えを破るところだった。昨日どころか、今日の朝まで酷使してしまったから、ちゃんと休ませなくちゃ。お気に入りのブーツだから、痛めたくない。
ブーツキーパーをもとに戻して、靴箱を物色していると、二階でドアを開ける音がした。足音が近づいて、すぐに階段を下りてくる。
「おはよ」
「……おはよう」
廊下の天窓から朝の光を浴びたレンは、幾分すっきりした顔をしていた。でも、一段踏むたびにちょっと顔を顰める。頭が痛むのかもしれない。私も、飲み過ぎた後は頭に響くタイプのようだから。
「二日酔い?」
「完全に」
「私も」
「出掛けるの?大丈夫か?」
「薬飲んだから、平気」
私が飲んだ薬は私にはよく効いたし、だからレンにも効くはず。根拠のあるようなないような、そんな自信に基づいて、私はレンの分の頭痛薬も用意したのだった。性別も体格も違うんだって思い知ったはずなのに、私は未だに、レンとの隔たりを疑うことができない。
階段を下り終えたレンは私の傍まで来ると、一定の距離を保って止まった。いつものレンだ。
「リン、昨日はごめん」
「いいよべつに。あ、でもお金はワリカンだからね!」
「俺が払うよ」
「えー、だって、結構かかってるよ?カラオケ代とホテル代とタクシー代」
靴箱からブーティを選んで、玄関に並べる。足を入れて振り向くと、予想通り、レンが無表情でこちらを見つめていた。
「……待って。ホテル代?」
「もー、ほんとに覚えてないんだぁ」
私は知っている。レンのこの無表情は、驚いているときの顔だ。昨日から、貴重なレンばかり見ている気がする。
「テーブルの上に、レシート置いてあるから。封筒の中ね」
私が指差した先を追って、レンはすぐさまキッチンの戸に手をかけた。おお、慌ててる。その隙に腕時計に目を走らせ、私は玄関のドアを押し開けた。
「リン!」
気付いたレンが、咎めるような声をあげる。でもごめん、ほんとに時間がないの。電車に遅れてしまう。
「ワリカンでいいから、計算しといて。覚えてないかもしれないけど、カラオケはレンが払ってくれたんだよ」
いってきますを笑顔で添えて、私はドアを閉めた。走り出してから、鍵を掛けなかったと思い出す。あとでメールして掛けてもらおう。そそっかしいって怒られるかな。ううん、今回くらいは大目に見てもらわないと。何と言っても、レンを連れて帰るのは、それなりに大変だったのだ。
駅までの近道を選んで、急な坂を駆け上がる。さすがに走ると、まだ少し頭に響いた。住宅街の続く狭い道は、午前中のこの時間ならあまり車は通らない。速度を緩めて、ケータイを取り出す。歩きながらメールするなんてあまり誉められたことじゃないけれど、鍵のことが気にかかった。
メール画面を呼び出すと、受信ボックスに新着が1件ある。レンからだ。開こうとしたとたん、ケータイが震えて、新たなメールの着信を告げた。同じく、レンから。
(…………やっぱり「ながらメール」は、よくないよね、うん。)
2件の新着メールは見なかったことにして、私はケータイをカバンの中へ放り込んだ。レンへのメールは、駅に着いてからにしよう。
駅への道を再び走り出す。途中で何度かカバンが震えたのは、気のせいにした。そう、本当に、大変だったんだから。このくらいの意趣返しは、許されるはずだった。
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スコップを用意すべきなのかどうか。