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見知らぬ住宅街だった。リンと繋いだ手は、汗でしっとり湿っていたけど、離そうとは思わなかった。くい、とリンの手に引っ張られて、角を曲がる。
「ちがう、こっちじゃない」
呟くと、リンが泣きそうな顔で振り返った。
「もどる?」
「……もうちょっとだけ、いこう」
曲がったら、戻るのは無理だ。その代わり、次の角では俺が手を引いた。リンのためらいが、手をとおして伝わってくる。それを無視して先へ急いだ。
曲がった瞬間、俺は悟った。違う。こっちでもない。今度は、リンの方が、正しかったのだ。
立ち止まろうか迷って、リンの顔を盗み見ると、リンもこちらを見ていた。どきっとして、足が止まる。自然と向き合う形になったはずなのに、リンの表情はぼんやり霞んで分からない。でも、小さな赤い唇だけが、妙に鮮やかで。
「ーーーーーーート、」
いつのまにかあたりは住宅街ではなく、狭くて暗い部屋だった。リンの唇だけしか見えないのは、お互いの顔が近すぎるからだと気づく。
「……リっ、」
「ーーーラーーット、」
「え?」
「テキーラショット、たのも?」
「……は?」
寝起きでひび割れた声が、部屋の天井に跳ね返って戻ってくる。窓の外は仄明るい水色だ。首をひねって壁を見上げると、時計の短針と長針は真っ直ぐにのびている。
「ろくじ……」
どっちの、6時だ。一瞬まどわされたけど、すぐに思い出した。第一、寝間着にしているジャージを着ていない。
木曜の今日は講義が3限までで、バイトもないから家に戻って、部屋でぐうたらしていた。ベッドの下に、楽譜が数枚散らばっている。これを見ているうちに、寝てしまったらしい。
夕寝とは、我ながら良い御身分だ。自堕落をした罰なのか、こういう変な寝かたをする時に限って、嫌な夢を見る。……テキーラショットがオチとは、新しいパターンだった。あれはトラウマだ。もう二度と飲みたくない。
あの日、飲み会から離脱して、リンと二人でカラオケに入るまでのことは、きちんと覚えている。お互い良い感じにできあがってはいたけど、歩けないほどじゃなかったと思う。でも、明らかに判断力は落ちていた。カラオケでリンがふざけてテキーラなんか頼むから、俺が二人ぶん飲んだ。それが間違いだったのだ。リンに酔われちゃかなわないと思ってのことだったけど、それで俺が潰れたら意味がないのに。たったの2ショットでも、飲み会後の大脳にはダイレクトに響いてしまったらしい。そこから先の、記憶がないのだ。気がついたら家だった。
リンに渡された3枚のレシートは、今も机の上に置いてある。払いはワリカンで精算した。リンがワリカンを主張したからというのもあったけど、一番の問題は3枚目のレシートだった。ネットで検索するまでもない。あそこは学生料金があるはずだが、レシートを見る限り、俺は学生証を提示しなかったらしい。ーーもしも、何か、あったとして。俺が全額払ってしまったら、お金で買ったみたいじゃないか。
『何かって、何?』
リンの笑みを含んだ声が脳裏をよぎる。
『何もないってば。大丈夫』
リンから聞き出せたのは、これだけだった。信用ならない。リンの「大丈夫」も、俺自身の空白も。
のろのろとベッドから足を下ろす。殺しきれなかったため息が、唇からこぼれた。
階下に降りる途中で天窓を見上げると、ガラスは濡れて曇っていた。リビングダイニングへ入って、カーテンをめくる。霧のような雨だ。雨が他の音を吸いとって、でも、雨音はしない。どうりで静かだった。キッチンの方から、冷蔵庫が微かに唸るのが聞こえる。
何か光った気がして、ソファへ目を落とす。放り出したままのカバンの横で、ケータイが青いランプを点滅させていた。受信ボックスを開くと、メールが2通。
Date 15:42
From リン
Sub 冷蔵庫の中みた?
お昼のオムライス、余ったの。良かったらおやつにどーぞ。
木曜日は、リンの方は3限から5限までが講義で、すれ違いだ。リンがお昼に作ったものを、俺のために少しだけ残しておいてくれるのは、たまにあることだった。バイトがある時は夜食に、バイトがない時は遅めのおやつに、有り難くいただいている。甘いものはあまり得意じゃない。皆でお茶にする時くらいは付き合うけど、進んで食べたいのは甘い「おやつ」ではなく「間食」だ。そこらへんの嗜好を、リンはよく理解してくれている。今日は夕寝を貪ってしまったから、おやつには遅い時間だ。
Date 17:03
From リン
Sub 無題
今日ちょっと遅くなるから、先食べてて。
今夜はミク姉もルカ姉もいないし、メイ姉やカイトが帰ってくるという連絡は特にない。リンと俺の二人だけだ。リンが帰るまで夕飯を待っていよう。そう決めて、俺はキッチンへ向かった。夕飯が遅いなら、今の時間に食べても問題ないだろう。
冷蔵庫を開けると、探すまでもなく正面2段目に、ラップのかかった小さめの皿が鎮座していた。そのままレンジに入れて、温める。ターンテーブルの上で回転するオムライスは、小ぶりながらもきちんと卵にくるまれていた。
チンと出来上がりを告げたレンジから熱々の皿を取りだして、ダイニングへ運ぶ。熱ではりついたラップをひっぺがすと、湯気がもうと立ちのぼった。流行りのとろとろ卵ではなく、綺麗な焼き目のついた薄焼き卵だ。脇のところが少し破れて中身がのぞいている。チキンライス……いや、ソーセージライス、かな。ぐるりとケチャップのかかった黄色い山にスプーンを入れようとしたところで、手が止まった。
「…………」
鮮やかな黄色の上に描かれた、ケチャップの赤い図形。ラップで押しつけられたせいか、レンジの熱で流れてしまったのか、少し崩れていたから、その原型に気づくのが遅れた。一般には心臓を表すシンボルだけど、胸とか尻とか木の実とか、起源は諸説ある。日本風に言うと、猪目文様だったか。要はーーハート型、である。
スプーンを握りなおし、ハートの一部を割って口に運ぶ。一口が大きすぎて、やけどしそうに熱かった。
半分以上も食べ進んだところで、玄関の扉が開く音を聞いた。
「ただいまぁ」
リンの小さな声に首をひねって、俺はスプーンを置いて立ち上がった。ダイニングの時計はもうじき6時半。5限まで出席するなら、帰るには早い時間だった。そもそも、今日は遅くなるんじゃなかったのか。
「おかえり、……どうしたの、それ」
廊下へ出てリンを見た途端、いつくか浮かんだ疑問はかき消えた。
玄関に立ち尽くしたまま、ぼうっと俺を見上げるリンは、霧雨に髪を湿らせていた。しっとり濡れた金糸が、白く青ざめた片頬に張り付いている。そして、もう片方の頬の顎に近いあたりを、大きな絆創膏が覆っていた。
「今日、ふられた」
赤い唇で小さく呟いて、リンはへらりと笑った。
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レンくんは、いつからか、カイトさんを呼び捨てにしています。