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「ただいまー」
玄関を開けると、キッチンからゴリゴリと妙な音が聞こえた。戸のガラス窓に、ぼんやりと桃色が映っている。
「たっだいまー!」
少し声を張り上げると、緑色が一瞬映ったのち、ぱっと開いた。
「リンちゃんおかえりー。レン君は、お疲れ様」
「ん」
「ねぇ、何の音?」
「包丁研いでるの」
「ええ?」
ミク姉の脇からキッチンをのぞくと、ルカ姉が真剣な表情で砥石と向き合っている。うちに砥石なんてあったんだ。
「今晩はお刺身なんだけど、お刺身用の包丁が見つからないんだって」
いつものだと切れ味が悪いからって、研いでるの。ミク姉が苦笑するので、ふうんと相槌をうつ。そういえば今日はメイ姉とカイ兄がいないので、ルカ姉が夕飯を作ってくれるのか。
「あっレン君、すぐご飯だからねー!」
「おー」
我関せずの顔でとんとんと階段を上っていくレンに、ミク姉が声を張り上げた。その声に、ルカ姉が振り返る。
「おかえりなさい。あとはお刺身を切るだけだから、リンも着替えていらっしゃい」
「はーい。包丁なくなったんだって?」
「ええ、そうなの。柳刃包丁じゃないから、味が落ちてしまうと思うけれど……」
「そんなことないよっ」
ルカ姉があまりにも残念そうなので、つい根拠のない自信をこめてしまう。ううん、マイキョテキ帰納法に基づいた根拠ならちゃんとある。ルカ姉の魚料理はいつも美味しいのだ。ただのお刺身であっても、パックのお刺身とは何かが違う。包丁のことなんてよくわからないけど、今日だってきっと美味しい。
「レン君、機嫌なおってたみたい」
「あら、そう?よかった」
二階に聞こえないようにか、声をひそめて交わされた会話に、私は首を傾げた。機嫌が直るってことは、機嫌が悪かったのだろうか。帰り道では、そんな気配なかったのに。
「何かあったの?」
「やー…ちょっと…」
何でも、ルカ姉とミク姉が話しているのを、聞かれてしまったらしい。最近は物騒だから集団で襲われたらひとたまりもないとか、レンは可愛いから頼りないかもとか、何とか。うん、それは私もちょっと思ってた。
「でも、リンちゃんのナイトとしてちゃんと帰ってこれたね!」
「な、ナイトって…」
「機嫌が直ったのは、やっぱりリンのおかげなのかしら」
何か誤解があるようだけど、そんなんじゃない。思春期なのか、最近レンは家であんまりしゃべらない。そのくせ私とはよく話すから、『レンの扱い方がわからない時はリン』って、皆そう思っている節がある。私に対してだって、レンが不機嫌な時は結構あるのに。
「リンちゃん、レン君に何したの?」
たぶんミク姉は何気なく聞いただけなんだろうけど、私は詰まった。レンと手を繋いだことを思い出してしまったから。まさか、あんなことで。そんなわけない。
「と、特に何も」
「何もしないでレン君の機嫌なおしちゃうのもすごいよねぇ」
「…ルカ姉、今日のお味噌汁はなぁに?」
ネギだって分かってたけど、話を逸らす。ルカ姉に聞いたのに、案の定ミク姉が目を輝かせた。その横で、ルカ姉はにこにこと私を見ている。
「ねぎと油揚げだよっ!今日のねぎはねぇ、」
「ミク姉、その話は夕飯の時に聞くね。私着替えてくる!」
ルカ姉の笑顔がなんだか意味深に思えてきて、私はキッチンを逃げ出した。あれは絶対、私が何かしたんだと思ってる。顔に血がのぼっていたのも、多分ばれていた。
廊下へ出ると、二階からレンが降りてくるところだった。階段に足をかけていた私を見て、端に寄ってくれる。それなのに目測を誤って、少しレンにぶつかってしまった。
「わ、ごめん」
「いいから、落ちるなよ」
何を心配したのか、私が階段をのぼりきるまで、レンはじっと私を監視していた。ちょっとよろけただけなのに。前に一度、派手に家の階段から落ちて、家族全員が慌ててドアから出てきたことがあった。普段から身のこなしが大雑把な私は、歩いていてもよく人にぶつかっている気がする。今日の帰り道でも、確か一度レンにぶつかった。
「大丈夫だから!」
「はいはい」
肩をすくめて階段を降りていくレンを、今度は私が見送る。ふいに、今日ぶつかった時の固い感触を思い出した。あれは本当に、財布だっただろうか。
夕飯のお刺身は、とっても美味しかった。