滑り込みで鏡音誕記念。
リン・レン誕生日おめでとう!!!
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ふいに沈黙が落ちるこの瞬間を、どこかの国では「天使が通り過ぎる」と表現するらしい。レンの澄んだ碧の中に映る自分を見ながら、そんなことを思い出した。いま通り過ぎているのはきっとクピドだ。そう信じて、私は瞼を落とす。瞼に閉ざされた暗闇でも、レンの気配が近づくのが分かる。
暖かな感触は、けれど、私の予想とは別の場所に降りてきた。鼻の頭に触れて、鼻筋をそのままそっと滑る。目を開くと、きゅっと鼻を摘ままれた。
「レ……」
もう、ふざけて。そう言おうとして止める。じっと見下ろす碧が、意外な真剣さを湛えていたから。中指と親指でやんわりと鼻を固定されたまま、人差し指が優しく鼻筋を撫でる。
「近くで見ると、これ、わかっちゃうな」
一瞬置いて、何を言っているのか理解した。レンが気にしてるのは、私の鼻の頭にある傷痕だ。もう何年も前に拵えたもので、今では殆んど見えないくらいの、小さな傷。
「こんなに近くで見るの、レンくらいでしょ」
「うん、でも…ごめん」
この傷は、レンがつけた。何年も前の今日、二人の誕生日のことだったから、覚えている。
小さい頃は、レンとの喧嘩なんて日常茶飯事だった。 二日に一回は取っ組み合いの喧嘩になって、姉達は随分手を焼いたらしい。その日の喧嘩も、バースデーケーキのチョコプレートを盗ったとか、お返しに苺を奪われたとか、そんな些細なことだったはずだ。どこかの素直な鏡音みたいにごめんなさいが言えれば良かったんだけど、残念ながら二人とも、素直になれない悪い子だった。まだ体格差もなかったし、子供だったから、一度手をあげてしまえば手加減というものを知らなかった。せっかくの誕生日なのに、ダイニングの並んだイスの上で殴るわ蹴るわ、テーブルが揺れてケーキが落ちるんじゃないか思ったと、後にルカ姉は語った。
いい加減にしなさい、というメイコ姉の雷が落ちた直後だったと思う。レンの手が、私の顔面に直撃した。勢いづいた爪が私の鼻の皮を引っ掻いて、柔らかい子供の肌は簡単に裂けてしまった。
ぴたりと、レンが固まった。憎たらしい喧嘩の相手が急に戦意を失ったのを感じて、私は首を傾げた。次いで、鼻がひりひりと痛みだした。つうっと鼻先を何かが伝う感触がして、それが血だと気づいた時、「リンちゃん!」という慌てたミクちゃんの声が聞こえた。
痛みに、じわりと涙がこみあげた。泣いてしまおうと口をひらきかけたが、それより前に大きな泣き声があがった。レンだった。
相手の顔から血が出たこと、自分が相手の顔を傷つけてしまったことが、小さなレンにはひどくショックだったのだと思う。あっけにとられて、私は涙が引っ込んでしまった。あんまりレンが激しく泣くものだから、だいじょうぶだよと声をかけてあげたかったんだけど、急いで救急箱を運んできたメイコ姉が私の頭を引き寄せた。鼻の傷を見るためだ。その時、黙っていたカイト兄がレンの前にしゃがんだのが目の端に映った。
ごつんと、ゲンコツがレンの頭の上に落ちた。泣いている子供でも、容赦なかった。
「女の子の顔に、傷をつけるんじゃない」
厳しい声に、私は身を竦めた。ダイニングの空気がさっと張りつめる。お兄様。ルカ姉の咎めるような声は、弱々しく空気に溶けていった。
「レン。何か言うことがあるだろう」
「…め、なさ…」
「俺じゃない!」
カイト兄の怒鳴り声なんて、初めて聞いた。メイコ姉が黙って私の肩をくるりと回したので、私はレンに向き合うことになった。レンの後ろで腕を組んでいるカイト兄がとても怖かった。
目を真っ赤に腫らしたレンは、嗚咽を堪えながら、それでも私の目を見てちゃんと言った。
「ご、めんなさ、い」
聞き届けて、カイト兄が手をあげたので、私もレンも身体が強張った。けれど、その手は優しくレンの頭の上に降りてきた。よし、言えたね、という穏やかな声は、いつものカイト兄のもので、私は一気に涙腺が緩んだ。
ようやく泣けてきたあたしとは対照的に、レンは涙を止めて、とぼとぼと部屋を出て行ってしまった。カイト兄は素知らぬ顔で喧嘩の後片付けを始め、メイコ姉はレンに目もくれずに私の鼻の手当てを続けた。ルカ姉とミクちゃんが心配そうに見送っていたけど、二人もレンを追いかけなかった。傷を消毒して鼻の頭に絆創膏を貼ってもらった私は、メイコ姉の腕から解放されるや、慌ててイスから飛び降りた。まだ涙が乾ききっていなかったけれど、それどころじゃなかった。
「リン」
メイコ姉の声に、私はもどかしく振り返った。
「ちゃんと言えるわね」
大きく頷いて、私は廊下へ走り出た。私はまだ、ごめんなさいを言っていなかった。
私達の子供部屋の隅に、レンは膝を抱えて座っていた。私はレンの前で正座して、レンの目を見た。さっきのレンみたいに、ちゃんと伝えなきゃ。
「れん。ごめんなさい」
「…おれも、ごめん」
「れんはさっきいったもん」
「うん。…いたかった?」
ほんとはまだ少しひりひりしたけれど、私は精一杯笑顔を浮かべた。だって、レンがあんまり悲しそうな顔をしていたから。
「ぜんぜんへいき!」
伝えると、レンはほっとした顔をして、もう一度だけごめんと言った。それから、二人で手を繋いでダイニングへ戻った。ダイニングはすっかり喧嘩前の状態になっていて、姉達と兄は2回目のバースデーソングを歌ってくれた。
「ごめんな」
「だからぁ、それ今年で何回目?」
毎年、誕生日が来るたびに、レンは私に謝る。確かにあの時の傷はしばらく残っていたけど、今ではよく見なきゃ気づかないくらいの小さな窪みがあるだけだ。お化粧すれば隠れてしまう。だから私は全然気にしてないのに、レンは謝るのを止めてくれないのだ。
「だってさ」
「いい加減聞き飽きたし、こんなのたいしたことないっていうのも、言い飽きたんだけど」
私を心配してくれるのがちょっぴり嬉しいっていうのも、無くはないけど。でも、ここまでされるとさすがにうざったいのだ。せっかく今日は特別な日なんだし、もっと楽しい話がしたい。
「…ほらさ、俺ってつまり、リンをキズモノにしちゃったわけだろ?」
私の拗ねた空気を読み取ってか、レンは冗談めかした口調に切り替えた。鼻を弄っていた手が下へ降りて、喉をくすぐられる。私、猫じゃありません!
「……私ってキズモノなの?」
「そうそ。だからさ、」
私は慌ててレンの口を押さえた。それは駄目。レンが言うと、破壊力が強すぎる。だから私に言わせて欲しい。
「ね、もう謝んなくていいから、代わりに一生責任とってね?」
上目づかいを意識して頑張ったんだけど、レンは小揺るぎもせず、満足そうに喉で笑った。レンの口を押さえていた私の両手が、レンの手によって拘束される。手首を掴む力は男の人のものなのに、碧い眼も白い肌も、猫っ毛でふわふわの金髪も、昔のまんまだなんてずるい。
「レンって天使みたい」
「……。……ぷっ」
「は?!なんで笑うの?!」
「いやいや…。そういうことは、鏡を見て言ってね」
「えっ」
どういう意味だ、ばか。ほんと、泣き虫のレンが、いつの間にこんなにマセちゃったんだろう。きっと赤くなっている私の顔へ、レンの微かに笑んだ視線が振り注ぐ。再び落ちた沈黙に、私はおそるおそる目を閉じた。
今度こそ、クピドが通り過ぎると信じて。
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