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ウィーン、ピピッ。玄関のロックを解除する微かな音は、自分達の部屋にいても耳に届いた。レンに一瞬遅れて、リンがはっと顔をあげる。レンに比べていくらか感度が劣るとはいえ、彼女の耳も人間を遥かに勝る性能を持っている。リンはみるみる笑顔になって、跳ねるように立ちあがった。
「おかえりなさい!!!」
ドアを勢いよくスライドさせて、短い廊下へ踏み出すその速さに、ひやりとする。急いで後を追うと、リビングへ入る背中がよろめいた。
「……っリ!」
レンが腰を抱えるのと同時に、リンも壁に手をついて踏みとどまった。
「あ。えへ、ありが…」
「走るな!」
最大音量の声が出た。振り向いてはにかんだリンの顔が、ぴきりと固まる。しまったと思っても、もう遅い。険しくなっていた表情を緩めたが、白いリボンはゆるゆると萎れていった。
「ごめんなさい…」
「あーー、大丈夫か?」
人に聞こえない程の小さな謝罪を、呑気な人間の声がかき消す。玄関に立った男が、苦笑してこちらを見ていた。
「……おかえりなさい、マスター」
「ただいま」
リンの腰に回していた腕を解く。一人で立ったリンは、迷うように視線を彷徨わせてから、マスターに向きなおった。
「…マスターおかえり…」
「はいはい、ただいま」
靴を脱いで部屋に上がったマスターは、いつものようにリンの頭に手を乗せる。
「転ばなくて良かったなぁ、リン」
「あの…でも…」
「レンは別に怒ってないぞ?な、レン」
急に振られて一瞬詰まったが、慌てて頷いた。リンが不安げな顔でこちらを窺う。
「ほら、大丈夫だ。それより、お土産だよ」
マスターが右手に提げていたものを掲げると、リンの興味はすぐにそちらへ逸れた。箱の形に膨らんだ袋。あれはたぶん…
「ケーキ?!」
「クリスマス・イヴだからな」
起動して初めての、イベントだった。
マスターが箱を開けるように指示すると、リンは袋を大事そうに受け取ってしずしずとテーブルへ進んだ。皿出すぞ、と肩を叩かれたので、レンはマスターを追ってキッチンスペースへ向かう。
「こら、レン」
「はい」
「あんまり大げさにしなくていいんだぞ。Expressだって、結構頑丈だからな」
「…はい」
昨日の今日で、レンも神経質になっていた。先程のように何もない所ですってんころりんとやられては、こちらの身が持たない。マスターの反応を見ていると、そんなに気を遣うほどではないのだろうか。転ぶくらいは平気だと、構えるべきなのかもしれない。
価格設定の都合上、ProとExpressにはいくつか構造の違いがある。記憶装置の一つもそうだと知ったのは、昨日のことだった。ExpressであるリンのHDDは、衝撃に弱い、らしい。
昨日、休日出勤を嘆いて出て行ったマスターは、夕方頃に帰ってきた。手に提げていたのはクリスマス仕様の紙袋で、有名なチェーン雑貨店のものだった。中には、小さなツリーやぴかぴかのモール、サンタの蛍光シールなどが入っていた。文房具を買いに寄ったら、クリスマスグッズが半額だったのだそうだ。テレビで見ていた『クリスマス』が目の前に現れて、リンも、そしてレンも、胸が躍った。さっそく三人で、リビングまわりを飾りにかかった。
窓ガラスに貼るタイプの蛍光シールは、リンがやりたがった。ソリに乗ったサンタを模したそのシールは、確かにリンが喜びそうな可愛らしいものだった。サンタのソリは、空高く飛んでいなければならない。窓際にイスをよせてよじ登ると、リンは目いっぱい手を伸ばした。そして、ものの見事にイスから転がり落ちたのだ。
テーブルに頭をぶつけたのを見て、レンは最初苦笑した。可哀想に、痛かっただろう。しかし、レンが大丈夫かと手を差し伸べるより先に、マスターが動いた。リンを抱えあげたその横顔が妙に真剣なのに気づいて、レンは息を呑んだ。
いたかったぁと涙目になったリンは普段通りで、特に異常は見られなかった。それでもマスターは、リンを自分の部屋に連れて行き、完全スキャンとメンテを開始したのだ。スタンバイ状態になっているリンの横で、マスターは簡単に説明してくれた。
V2CVシリーズのProは、ボーカロイドとしてもアンドロイドとしても、非常に完成度が高い。音楽自体に興味はなくても、“アンドロイド”として買っていく客も多いそうだ。しかしその代わりに、富裕層でないととても手が出ない値段になってしまった。そこで開発されたのが、基本的なボーカロイドとしての機能に絞ったExpressだ。ファンを意識して姿形はなるべくそのままに、内部のパーツをより安価なもので代用。アンドロイドとしての機能は、必要最低限に抑えた。低価格で、きちんと歌えて、見た目もほとんど変わらないExpressは、爆発的に売れた。世に出ている製品の数としては、Expressの方が圧倒的に多いらしい。
安価なもので代用したというパーツの一つが、補助記憶装置――人間の脳で言えば、思い出を記憶する部分――だ。Proに使用されているのは、V2CVシリーズだけのために特別に開発されたという最新型のSSDで、低発熱・低騒音、耐衝撃性が高く、処理速度も速い。ただし、容量単価が高いのだそうだ。アンドロイドとしての容量を支えるには、どうしても値段がつり上がる。そこでExpressに用いられたのが、従来のHDDを改良した装置だ。
しかし、HDDは構造上、どうしても衝撃に弱い。このため、Expressは屋内での稼働が望ましいとされ、取扱説明書では一室内での使用を推奨している。最も、ほとんどのユーザーはそれを守っていないらしいが。レンだって、リンが一室に閉じ込められるのは嫌だ。
けれど、HDDが壊れることは、記憶をなくしてしまうことと同義だ。どの程度の衝撃まで耐えられるのか、初めてボーカロイドと暮らす自分には分からないので、念のため検査をするのだと、マスターは話した。
検査結果に異常なしと表示されたのを見て、レンもマスターも胸を撫で下ろした。考えてみれば、テレビに映る街にはボーカロイドが溢れている。庶民に買える値段ではないProが、あんなに出歩いているわけはないので、多くがExpressのはずだ。外に出れば転ぶものもいるだろう。Proに比較して壊れやすいというだけで、案外Expressも丈夫なのかもしれない。
「レン!レン見て、すごいよ!!」
はしゃぎきった声に、我に返る。皿を持って戻ると、ダイニングテーブルの上に、箱から出されたケーキがあった。レンも、本物のケーキを見るのは初めてだ。
「すげー、綺麗」
真っ白なクリームの上に、”Merry Xmas”と書かれたチョコプレートと、赤い実をつけた柊の葉のレプリカが載っている。ケーキの横には、苺が3つとサンタクロースのロウソク。
「ねっ、マスター、このイチゴのせるの?!」
「へえ、『デコレーションケーキ』ってそういうことか。なるほどね。いいぞ、載せて」
嬉々としてロウソクの袋を開けるリンに、これにして良かった、とマスターが呟く。普通は、始めから苺やサンタが載っているところを、デコレーションを楽しむためにあえて別添えにしてあるらしい。いまさら感心しているところを見ると、マスターはそういうケーキだと気づかずに買ってきたようだ。
「レンはこっちとこっち、どっちのせたい?」
片方はサンタと苺1つ、もう片方は苺2つだ。どちらでも良かったが、苺2つの方を選ぶ。リンが目を輝かせた。慎重な手つきで、サンタをケーキの真ん中に置く。その周りに、二人で苺を飾った。
「これ、火つけるんだよな?」
「あ?ああ、そうだな。ちょっと残酷だが…」
「は?」
お茶の用意をして、いよいよ火をつける時になって、レンはマスターの言葉の意味をようやく理解した。頭から溶けていくサンタに、リンが悲鳴をあげて火を吹き消した。
「サ、サンタさん溶けちゃうかと思った…」
「確かに残酷…」
マスターは二人の反応にくつくつ笑いながら、ケーキを切り分けてくれた。一口頬張って、リンがとろけそうな笑顔になる。興奮で頬がバラ色に染まっている。
「…お前らって、ほんとによくできてるよな。人間かと思うよ」
その顔を見てか、マスターはそう言った。でもやっぱり、人間には遠い。今レンが美味しいと思っているケーキだって、そうインプットされているからそう感じるだけだ。少し設定をいじれば、途端に食べられなくなる。バナナが好きなのも、デフォルト設定がそうなっているからなのだ。それはリンも同じだ。いや、レンにはまだ、「嫌いなものを克服する」というプログラムもあるが、リンにはそれさえないだろう。好きか、嫌いか。設定次第で一気に切り替わる。
それでも、こうしてケーキを囲む瞬間が幸せだと思う気持ちは、きっと人間に近いのだと。レンはそう信じている。
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近くの店で、クリスマスグッズが半額になっていたので。