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一階から二階まで、ひと息に階段を駆けあがる。そのまま勢いで次の階へ進みそうになって、慌てて急ブレーキ。一段だけ踏み出してしまった足を戻したところで、チャイムが鳴った。一瞬ドキッとしたけれど、腕時計は始業五分前を指している。予鈴だ。それでもギリギリなことには変わりないので、私は早足で二階の廊下を歩きだした。一組だから、一番遠い。
この学校の教室は、一階が三年、二階が二年、三階が一年になっている。年寄りほど下の階なのよって、卒業した三年の先輩達が笑ってたけど(そういえば職員室も一階だ)、私も一つ年をとって四月から二階になったのだった。まだ、慣れない。「卒業した三年の先輩」というのも、正確ではない。今の三年はグミさん達の代だから、ルカさん達の代を三年と呼ぶのはおかしい。分かってるけど、ちゃんと呼ぼうとすると違和感があった。私の中で、ルカさん達は永遠に「三年生」なんじゃないだろうか。
教室のドアを開けると、意外な人物が目に入った。静かに一人で席についているにもかかわらず、クラスメイトの中でぽっかりと鮮やかに浮いて見えるその人は、私の大親友だと勝手に思っている。
「ミクちゃん!おはよー」
「おはよう」
読んでいた楽譜から目をあげて、ミクちゃんが微笑む。何度見ても、びっくりするぐらい可憐な笑顔だ。
「お仕事は?」
「交渉したのよ」
新学期早々のお仕事は、確か今日までだったはずだ。けれどミクちゃんは、形の良い唇をニッとつりあげた。
「少しでも出席日数を稼がなきゃね」
「もしかしてミクちゃん、今週の土日もお仕事?」
「ええ。今日のを、土曜にまわしたから。ごめんね、買い物行こうってずっと言ってるのに、なかなか……」
「いーのいーの、それより卒業が大事でしょ?」
「そう、ね。リンと一緒に、卒業したいもの」
私と一緒に、と言ってくれたことが嬉しい。ミクちゃんはあんまり、そういうの口に出してくれないから。思わずにんまりしたら、ミクちゃんが怪訝な顔で見上げてきた。チャイムが鳴り始めたので、釈明の言葉は飲みこむ。今度こそ、本鈴だ。鳴り終わるまでの僅かな間に、ミクちゃんは教室の時計へ目を走らせた。
「そういえば、今日はずいぶん遅かったのね。寝坊した?」
「ううん……あ、えと」
咄嗟に首をふって、すぐに後悔した。寝坊だと言ってしまえばそれで済んだのに。どこから説明したらいいか分からなくて悩んでいるうちに、先生が教室に入ってくる。これ幸いと曖昧にごまかして席に戻った。
あとで聞かれたら、何て言おう。ミクちゃんには、レンのことは何一つ話していなかった。
あの日からずっと、私の朝は早い。さすがに始発になんて乗らないけど、レンと一緒に登校していた頃に比べて、三十分も早く家を出ている。レンの家の前を通り過ぎる時、レンの部屋を見上げるのが、新しい習慣になった。カーテンはいつも閉じていた。寝ているのかもしれない。朝の準備は二十分で済む、って聞いて、男の子はいいなぁと思った覚えがあるし。
カーテンが開いていることを、期待しなかったと言えば嘘になる。でもきっと開いていたらそれはそれで、私は走って逃げたんだろう。今日みたいに。
今日も、早い時間に家を出た。最初は眠かったこの時間も、最近では慣れてきていて、特に今日は暑いくらいの快晴だったから、めずらしく足取りも軽かった。生活の中にレンがいなくたって私は大丈夫なんだって、鼻歌まじりにそんなことを考えていた。
けれど、二つ目の角を曲がったところで、私は慌てて回れ右をした。レンが、いたのだ。学生鞄を肩にかけ、向かいの家のへいにもたれて、ぼんやりと自分の部屋の窓を見上げていた。
(なんでいるの……!)
ちょっと前まで水面のごとく穏やかだった私の心は、あっという間に大波を立てて荒れ模様になってしまった。考えてみれば、駅までの道は一緒なのだから、いままで鉢合わせしなかった方が不思議なのだった。油断していた。違う駅を使おうか、なんて考えが一瞬頭をよぎったけど、お金がかかるからそれは避けたい。
永遠のような五分を数えて、私はもう一度、角を覗きこんだ。レンは、同じ場所にいた。今度は俯いて、足元の石を転がしている。
かつてあの場所は、私の定位置だった。レンの家の向かいのへいには、腰の高さに出っ張りがあって、ちょっと体重をかけたりするには具合が良い。へいに背を預けると、真上にレンの部屋の窓が見える。毎朝レンの家の前に来ると、そうして窓を見上げた。私が着いてしばらくすると、カーテンが揺れる。支度を終えたレンが顔を覗かせて、ひらりと手をふってくれるのだ。今行く、ってそんな感じの合図。良いことがあった時は元気に、ちょっと寝坊気味の時は焦って、なにか考え事をしている時はそっけなく、そしてたまに……何だか優しげな笑顔で。日によって少しずつ違う、その大好きな一瞬を失くすのが惜しくて、どうしても惜しくて。自分から別れを切り出しておきながら、一緒の登校を強請った。そうしたらレンは、別れた後も何も変わらずに、合図を続けてくれた。それなのに、今度は勝手に耐えきれなくなって、私はこうしてレンを避けているのだ。
「……ふ」
無意識のため息が、ほんの少しだけ口から零れた。それが聞こえてしまったのからかどうかわからないけど、ふいにレンが顔をあげて――こちらを見た、気がした。
急いであとじさって、私は咄嗟に角の家のガレージへ滑り込んだ。停められた軽自動車の後ろに身を潜める。不法侵入!近所だけど、この家の人とは話したことがない。見つかったら何て言い訳をしよう。そもそも、レンと目があったわけじゃないし、もしかすると気づかなかったかもしれないし、ここまでする必要は……そう思った矢先、車の後側の窓とフロントガラスを通した向こう側に、A高の制服が映った。位置の関係上、首から上は遮られて見えなかったけど、首もととかバッグのかけ方とかで簡単に分かる。レンだ。
勢いよく飛び込んできた制服姿はすぐに足を止めて、しばらく道の先を見つめているようだった。
「…………リン?」
小さな呟きに、どきっとする。見慣れた制服は、そのまま道の先――私の家の方へ、歩いて行ってしまった。
他人の敷地に無断で入り込んでいる気まずさを持て余して、三分。車の窓ガラス越しに、再び同じ制服が映った。腰をあげて角度を調節する。俯いたレンの顔は無表情だった。角を曲がって、レンの家の方へ戻っていく。それを見送って、また三分。けっきょく私は、レンとは反対方向へ歩き出した。自分の家の前を通り過ぎて、いつも通学では使わない駅を目指す。遠回りで遅刻ギリギリだけど、レンと同じ道を通るのは、会ってしまいそうで怖かった。
駅に着いて、お財布を出そうと鞄を開けた時、ケータイにメール着信があるのに気づいた。お姉ちゃんからだった。
『さっきレン君が来たわよ。もう家を出たって言っといたけど。あんた、一緒に行く約束してたんじゃないの?』
自分でも馬鹿だと思うけど、私はそれでようやく確信できたのだ。レンはずっと私を待っていたんだ、って。
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終わらん。