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「はー」
大きなため息が口に出てしまい、ミクは慌てて口をつぐんだ。ラッシュ時の駅のホームは人で溢れかえっていたが、ミクのため息に振り返る者はいなかった。それでも少し、恥ずかしい。
はっと思いついて、肩にかけた学生鞄を点検する。お気に入りのキーホルダーが健在なことを確認して、胸を撫で下ろした。ついでにポーチを取り出して、鏡で髪をチェックする。やはり、かなりよれよれになっている。今朝は結構念入りにセットしたのに、すべて水の泡だ。むしろいつもよりひどい。
前髪だけ直し、あとは諦めて鏡をしまう。電光板と時計を見比べると、乗り換えの電車がくるまであと2分だった。
(ルカさんに会えなかったな……)
新学期の今日から、休み前までと違う路線での登校だった。市内で場所を変えただけのプチ引っ越しをしたので、通学路が微妙に変わったのだ。新しい路線はルカが利用しているはずで、探したらいるかなと期待して家を出たけれど、実際はそれどころではなかった。新たな最寄り駅でホームに入ってきた電車を見て、ミクは顔が引きつった。噂には聞いていたが、予想以上の満員電車だったのだ。これ以上乗れないのではないかと思ったが、詰め込まれた。幸い、何とか開かない側のドア付近をキープできたので、まだマシだったのかもしれない。押し潰されそうな圧力と戦い、車内の蒸し暑さに耐えること約20分。やっと解放された時には、今日一日分の元気をすべて使い果たしていた。これから毎日あの路線を利用すると思うと、憂鬱である。
ここから先の電車は以前と一緒なので、気が楽だ。この線も人口密度は高いが、あの満員電車に比べたら空いている方なのだと思い知った。気分を切り替えるために、ヘッドフォンを取り出す。例の満員電車がホームに入ってきた時、とっさに外したのは正解だった。鞄に入れておかなければ、壊れていたかもしれない。明日からは、イヤホンにしよう。
「ミク!!」
ぼんやり考えていたら、甘い香りが腕に飛びついてきた。むにゅ、と柔らかい感触。横を向くと、ルカがあまり見慣れない表情でミクを見下ろしている。
「ルカさん!おはようございます、どうかしま…」
ミクの問いかけを、電車到着のメロディが遮った。ルカはミクの腕を掴んだまま、何故か更に身を寄せてくる。ミクの左半身の背中側と、ルカの右半身のお腹側が、密着した。
「あの…?」
「このまま、我慢して」
囁くような声が、耳をくすぐる。ルカに促すように身体を押され、電車のドアが開いていることに気づいた。そのままの体勢で、冷房の効いた車内に乗り込む。一瞬で汗が冷えたが、ルカとひっついている部分だけは熱かった。
ルカは反対側のドアまでミクを引っ張ってくると、座席との仕切りに背中を預けた。向かい側のドアが閉まって、電車が動き出す。さすがにもういいのかなと思って身体を離そうとすると、ぎゅっと力を込められた。
「ごめんなさい、もう少し」
ルカの顔が、強張っている。何か切羽詰まった事情があるのかもしれない。そのまま、ミクはルカに、ルカは後ろの仕切りに寄りかかる形になる。ミクが力を抜いて身体を預けても、ルカの表情は緩まなかった。
「今日から、私と同じ線を使うんだったわね」
「あ、はいっ。覚えててくださったんですね!」
引っ越しのことは、夏休みの前にぽろっと言った程度だ。嬉しく思いつつも、ミクは急に自分の乱れた髪が気になり出した。ルカの位置からは、ミクのツインテールの左片方が、よく見えてしまうだろう。ミクと同じ路線に乗っていたはずなのに、ルカの髪はいつも通り一筋の乱れもなかった。
「ルカさんは、何分のに乗ってるんですか?」
「この電車に乗りたいから、35分着の急行に」
「あれ、私も同じです。でも私より遅かったですよね」
「今日はお茶を買っていたから」
ルカが話すたびに、息が首筋にかかってくすぐったい。ルカの使っているシャンプーのものか、甘い香りがミクを包んでいる。もう少し、ってあとどれくらいだろう。
「えっと。あの電車って、すっごい混むんですね」
「……ええ」
二の腕を抱きしめる力が少し強くなる。押しつけられた弾力に、ミクは思わずそちらへ目をやってしまった。豊かな胸に、自分の左ひじが埋まっている。一体何を食べたら、こんな神秘的なスタイルになれるのだろう。視線を引きはがして前を向くと、知らない少女と目が合った。ミクやルカと同じ学校の制服を着ている。少女は慌てたように顔を背け、隣の友人と小声で会話を始めた。
見られている。確かに、この体勢は少し近すぎるかもしれない。一度意識してしまうと、だんだん顔がほてってくるのが分かった。
それからはルカと何の会話もないまま、電車は降りるべき駅についた。ホームに降りてもルカはミクの腕を離さなかったが、さすがに階段にさしかかると、少し力を緩めた。腕を組むようにして、階段を下る。
「お手洗いに寄っても良いかしら」
断る理由もなく、階段脇の女子トイレへ進む。ドアをくぐった途端、ルカはさっと離れた。
「ごめんなさい、歩きづらかったでしょう」
「構いませんけど…どうかしたんですか?」
「…スカート、気がついていた?」
「え?」
ルカが、ミクのスカートの左後ろあたりを示す。ごめんなさいねと言いながら、プリーツをそっと摘まんだ。
ひらり。プリーツが広がるはずのそこから、僅かにミクの太腿がのぞく。
「あ…っ」
腰のあたりから裾まで、スカートが一直線に裂けていた。
「スカート切り魔というの。最近、あの路線で被害に遭う子が多いらしくて」
切り口はすっぱりと鮮やかで、自然に破けたとは思えない。おそらく、カッターか何かで故意に切り裂いたのだろう。一種の痴漢行為だ。
満員電車の中で切られたなら、乗り換え駅で歩いている間はずっと、スカートが裂けていたことになる。悔しさと恥ずかしさに、ミクは涙が滲むのを抑えられなかった。
「……裁縫道具は、持っている?」
「も、って、な…」
「…そう。私もなの。困ったわね…。ああ、カーディガンか何かは?」
ミクが持っていないことを告げると、ルカは自分のカーディガンを差し出した。
「ちょっと不格好だけれど、これを腰に巻くといいわ」
「はい……」
紺色のカーディガンを受け取ろうとすると、ルカは自らカーディガンを広げ、ミクの腰へ回してくれた。長袖の両腕を持ち、ためらいもなくぎゅっと結ぶ。持ち主の性格から察するに、このカーディガンの袖が結ばれるのは初めてだろう。こんなに強く結んだら、伸びてしまうのではないだろうか。申し訳なくて情けなくて、このうえルカに迷惑をかけたくないのに、ミクの涙腺は壊れてしまったようだ。ルカを煩わせていることが、何より辛かった。
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ミク様ご免なさい。
ミクの誕生日に出す予定だったなんて今となっては信じられない。
全くもってお祝いする内容ではないw
これだけだとあんまりなので後編へ続きます。
次はリンも出るよ!というか予定より出張りすぎて困った。
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