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「おにやらい、おにやらい!」
朝の冷気がゆるみはじめた襲芳舎に、突如として子供の甲高い声が響いた。襲芳舎の幼き主である凛は、几帳の影で静かに雛遊びをしていたが、その声を聞いて人形から手を離した。
「れん?」
昨夜から執り行われていた大内裏の一大行事も、後宮最奥のここでは、築垣を隔てた先のよそごとだった。夜の間は振り鼓の音がいくらか聞こえていたのだが、早くに寝てしまった凛はそれも知らなかった。
女房達はさすがに、朝から慌ただしくしているようだ。凛お気に入りの女房である流果も、今日はあまり顔を見ない。誰にも構ってもらえず、凛にとっては、いつも以上に退屈な朝だった。雛遊びにも、いいかげん飽きてしまった。
「おにやらい!」
寒さに降ろしていた御簾の向こうへ、蓮の声が近づく。重ねて垂らした壁代が邪魔をして、外は見えない。おに、やらい?なんだろう。凛はいそいそと、声がする方へ寄った。
「れん?どこ?」
ばさりと御簾を撥ね上げる音がして、凛はそちらを向いた。何枚かの几帳を挟んで、足音がこちらへ駆けてくる。蓮の足音が今日は少し荒々しいなと思っていると、すぐ目の前の几帳の裏で、足音が止まった。
自分と同じくらいの小さな手が帳を掴むのが見えて、凛は微笑む。蓮と一緒に遊ぶなら、退屈なんて一生やってこないのだ。
「れ…」
「……おにやらい!!」
けれど、帳が捲られた先にあったのは、蓮の顔ではなかった。金の四つ目、大きな鼻と口、ぎらりと光る戈――
「…っ、い、いやぁぁぁっ!!!」
顔を覆って後退ると、衣の裾を踏んで平衡をくずしてしまった。どしん、と尻もちをつく。逃げることもできず、凛は恐怖に身体を縮めた。
「りん!」
傍で蓮の声がしたので、凛はおそるおそる袖から顔を覗かせた。眉尻を下げた蓮の顔が、そこにあった。
「れん…お、おには?いまそこに、おにがいたの」
「りん、ごめん。そんなにおどろくとおもわなかったんだ」
声を震わせて問う凛に、蓮は申し訳なさそうに片手を差し出した。だいじょうぶ?と凛を起こしてくれる手とは反対側の手に、長い棒が握られている。祭祀用の戈だ。
「それ…いまのは、れんだったの?」
「うん」
蓮は気まずそうに首肯した。見ればすぐそこに、紐のついた面のようなものが転がっている。蓮が拾い上げて表へ返してみせると、今さっき凛が見た恐ろしげな顔が現れた。金の四つ目に、大きな鼻と口。けれど改めて見ると、四角い顔はのっぺりと白く、眉は大げさなほど太くて、いささか間の抜けた顔にも見える。
「ひどい、おどかすなんて」
「ちょっとだけのつもりだったんだ。それにこれ、わるいやつじゃないよ」
「…そうなの?」
「“ほうそうし”っていって、おにをおいはらってくれるんだ」
凛が少し興味を示すと、蓮は興奮気味に口を開いた。聞けば蓮は昨夜、頑張って起きていて、追儺の儀式をこっそり見に行ったのだそうだ。お供をしてくれた女房の説明を、今度は蓮が凛に話して聞かせる。
追儺の方相氏は、目に見えない悪鬼を祓う役を担う。怖い面をつけて手に盾と戈を持ち、それを打ち鳴らして宮中を回るのだ。桃の弓を構えた群臣を従えて、「鬼やらい、鬼やらい」と儺声を張り上げるその姿が、子供の目には恐ろしくも頼もしく映った。蓮は真似をしたくなって、似たような面と戈を、女房達に用意してもらったらしい。
「ほんものはもっとすごいんだ。りんもつぎはいっしょにいこう」
「ほんと?あ、でも……」
この襲芳舎より外に出るのはあまりよくないことだと、凛はおぼろげながら知っていた。蓮とよく似た顔は、宮中にある疑惑を生んでいる。そのため大人達は、凛と蓮が並んで表へ出ることを避ける節があった。
何も言えなくなった凛を見て、蓮はつかのま黙りこんだ。
「……じゃあ、おれがりんのほうそうしになる」
凛の目をじっと見つめて、細い子供の声を、精一杯に低く強める。
「おにをはらって、りんをまもるよ」
いつか大勢を率いるほどの力をもって、どんな悪いものも追い払う。そう言いきる蓮が、凛には充分頼もしく見えた。幼いながらも眦を決したその表情は、凛が初めて目にする“男”の表情だ。なんだか置いて行かれた気分になって、凛は慌てて面を手にとった。
「わたしも、れんをまもる」
それを見て蓮は少し唇を尖らせたが、凛が面をかざすと、すぐに笑顔になった。
「おにやらい、やろう」
「うん!」
人手不足で閑散とした襲芳舎は、走り回るのにもってこいだった。つい楽しくて、調度をいくつか壊してしまった。流果にばれたら、きっとどんな鬼より恐ろしい。二人は急いで隠れる場所を探し始めた。お互いを守るべく、しっかり手を繋いで。
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まぁ、結局怒られるでしょうね。
蓮の持った戈が帳に引っかけてやぶれたり、蓮の持った戈が二階棚に載った道具を落としたり。でも、凛も怒られる。はしたなく走り回ったから。蓮くん全然、守れてません。
この方相氏が、あまりに怖い面をしていたので、のちに鬼と混同されたらしいです。方相氏のうしろから人々が弓矢で援護射撃していたのが、次第に方相氏を人々が追っているように見なされたのだとも。それが、豆を投げて鬼を追い払う風習に変わっていったのだとか。
ネット情報なので、定かではありませんが。