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別れよう、と言った声は震えていた。頷くと、リンはもっと震える声でこう言った。でも、明日も一緒に行っていい?俺がまた頷くと、泣いてるみたいな顔で笑った。
レンの家にたどり着く一つ前の角で、私は手鏡を取り出した。うん、たぶん大丈夫。お姉ちゃんにもばれなかったし。
鏡をしまって気合を入れてから、角を曲がる。案の定、レンはすでに家の前で待っていた。時計を確認すると、いつもより3分くらい遅れてしまっている。私が洗面台でぐずぐずしていたからかもしれない。
「おはよ」
「おはよー!遅くなってごめん!」
「いや、べつに。いつもは俺が待たせてるし」
レンの隣に並んで歩き出す。レンが私を見ている気がして、慌てて一歩前に出た。けれど。
「……リン、なんか目、腫れてない?」
「えっ…そ、そう?」
開始5秒で、ばれてしまった。確かに起きた時はひどい有様だったけれど、冷たい水で顔をよく洗ったから、今はだいぶマシになったと思ってたのに。
「昨日、ちょっと遅くまで勉強しすぎちゃって…」
「偉いな。俺なんか諦めて寝たのに」
念のため用意してきた言い訳は、レンを納得させたらしい。私の学校もレンの学校も、今日からテスト期間だった。
「それより、レンに報告があるの」
「報告?」
「なんと!お姉ちゃんとカイトさんが、付き合うことになりましたー!!」
「は?ええ?!」
レンが面白いくらいに驚いてくれるから、自然と笑えてしまった。うん、大丈夫。この調子なら、普通に話すことができそう。
「そもそもカイトさんて、今はメイコさんと接点なかっただろ」
「そこはもちろん、私が一肌脱ぎました」
「何したんだよ、聞いてないぞ」
「言ってないもん」
「さいですか」
確かにいつもの私なら、レンに逐一報告していたと思う。これ以上レンに教えないのは不自然だから、話してしまわなければいけない。
「あのね、まず、ダブルデートしたんだ」
「…えーと?誰が?」
「お姉ちゃんとカイトさんと、ルカさんと神威さん」
「神威?え、神威先輩?」
「うん。ルカさんは、覚えてる?」
「合コンの時の、む…髪の長い人だろ?」
いま絶対『胸の大きい』とか言おうとしたよね、ってツッコんでると話が続かないから、無視する。まったくもう。
「4人で、歌舞伎を観に行ったの」
「デートで歌舞伎…?」
「合コンのときにルカさんが行きたいって言ってて、それで」
先月の合コンの席で、神威さんが話す歌舞伎に興味を示したのは、ルカさんだった。2年のときに海外から帰国したというルカさんは、日本と離れていたせいかもしれないけど、日本文化に目がない。ルカさんが合コンに参加したがったのも、『日本の学生は合コンをするものだと聞きました』とか、そんな理由だったし。
ほんとは、私が誘われた。合コンがあったその日に神威さんから電話がかかってきて、カイトさんも呼ぶから4人で観に行かないか、というお誘いがあったのだ。ノリで返事をしてしまったものの、正直なところ、私自身はそんなに歌舞伎に興味があるわけじゃなかった。それでも行くつもりではあったんだけど、ふと思いついてしまったのだ。お姉ちゃんが代わりに行ったら、カイトさんが喜ぶんじゃないかな、って。
「メイコさんて、カイトさん以外は面識ないんだろ」
「うん、でもカイトさんの名前出したら、懐かしいって言ってかなり乗り気で」
「…実はメイコさんも気があった、とか?」
「レンもそう思うでしょ?私も最初は半分冗談だったんだけど、これは意外にいけそうかもって思って」
テストが近くて行けなくなったとか何だかんだ理由をつけたら、お姉ちゃんはあっさり行く気になってくれた。カイトさんのことも、昔可愛がってた後輩なのよ、って。一緒にピアノの連弾したこともあるんだって、楽しそうに話してた。火付け役のはずの私が驚くくらい、事は上手く運んだ。
ダブルデートは大成功だったみたいで、お姉ちゃんとカイトさんはその後もたまに会っていた。ついに昨日、告白されてOKしたらしい。
「再会してから2週間くらいだろ?カイトさんすごいな」
「ね。お姉ちゃんもほんと嬉しそうで…」
ちくりと、自分の言葉が胸を刺した。ああ、ほんと最低。姉がうまくいっているのを素直に喜べないなんて、妹失格だ。
「……リン、もしかしてそれで泣いてた?」
「へ?!」
「目、腫れてんの、そのせい?……実はカイトさんが好きだったとか」
「違う違う!まさかぁ」
レンの言うことは半分正解で、だからつい慌ててしまった。でも、私はカイトさんが好きなわけじゃない。そうじゃなくて。
「…だよな、リンは神威先輩だもんな」
「ええ?違うって。神威さんはルカさんが」
「そんなことないだろ。リンに電話してきたじゃん」
「電話って…合コンの日の?」
「うん」
レンがあの電話を覚えていたことが意外で、きゅうっと心臓が縮まった。電話に遮られてしまった時間を思い出す。雨の音が過去も未来も隠してくれた優しい時間。久しぶりに1つの傘を分けたせいか、レンがすごく近い気がしていた。別れる前の、付き合う前の、懐かしい二人に戻ったような錯覚さえして、だから遮られたことは残念だった。
「あれは、ルカさんの連絡先まだ教えてなかったから。ルカさんのケータイ、赤外線ついてなくて」
「ああ、そうだっけ」
「あ、でも最近やっと買い換えたらしい…ってそれはどうでもいいんだけど、えーとだから、神威さんはルカさん狙いだと思うよ?ルカさんも気になってる感じだったし」
「先輩だからって遠慮することないんじゃないの」
「だーかーらぁ、私はべつに好きじゃないもん」
「泣いてたのに?」
「これは単なる寝不足です」
レンが真剣に聞いてくるから、なんだか悲しくなってしまった。だいたい、仮に私が神威さんを好きになったとしても、ちょっと気になるとかその程度だ。知り合ってからこんな短期間じゃ、失恋に泣くほどまで好きにはなれない。ずっと一緒にいる人なら、涙なんて馬鹿みたいにたくさん出るけど。
昨日の夜、私はチョコレートを捨てた。誰かさんに渡す予定で、渡せなくて、でもお姉ちゃんが冷凍庫に入れておけば一ヶ月は大丈夫って言ってたから、ずっと仕舞ってあったものだ。結局、勇気が出なかった。
合コンという名目のもと、張り切って作ったはずのチョコだった。お姉ちゃんお得意のトリュフのレシピで、お姉ちゃんに見守ってもらいながら。でも手は出さないように頼んだから、一応ちゃんと私の手作りだ。友チョコも一緒に作ったから大量だったけど、よく見比べて、いちばん形の良いものを選んだ。淡いピンクの袋にローズレッドのリボンを結んだラッピングは、一つだけだ。比べなきゃ分からない単なる自己満足だけど、すごく楽しかった。馬鹿みたい。だって、まさか合コンでレンが私のチョコを手にするなんて思わなかったのだ。比べたら違いに気づくんじゃないかってそれが怖くて、2月14日の朝、鞄には入れてみたものの、外に出すことはなかった。それでも諦めきれなくて、冷凍庫に入れて、そのままずるずると入れっぱなし。ほんと、馬鹿みたい。
そうやって私がもたもたしている間にも、お姉ちゃんは積極的にカイトさんと会っているようだった。もともと自慢のお姉ちゃんだけど、ここ最近のお姉ちゃんはまぶしいくらいに輝いて見えた。お姉ちゃんが遠かった。羨ましかった。比べる自分がみじめだった。大好きなお姉ちゃんのはずなのに、心が真っ黒になっていくのが辛かった。昨日の夜、付き合うことになったと聞いたとき、心からおめでとうを言えなかったことが悲しかった。冷凍庫から引っ張り出したチョコをゴミ箱に放り込んで、思いっきり泣いたら少しスッキリしたけれど、こうしてレンの顔を見ればやっぱり苦しくなる。もうどうしようもない。
「リンさ、そういえば、ホワイトデー何がいい?一応もらったんだし、何か返すよ」
「一応ってなに。ちゃんとあげたでしょ」
ナーバスになってるときにこの話題はちょっときつい。自己防衛のために、口調が刺々しくなってしまう。こんなんだから、可愛くないんだけど。
「だって、あれは合コンのじゃん。リンなら俺にもくれるって期待してたんだけど」
「なにそれ。……まぁ、用意は、してたけど」
「えっ」
「でも同じの二つもいらないかと思って。レンの分は友チョコにまわしましたー」
「二つで良かったのに。あれ、美味かったし」
誉め言葉一つで簡単に跳ねる心臓と、どうせお姉ちゃんのおかげだもんと懲りずに捻くれる心と、もう何だかめちゃくちゃだ。色々とおり越して、気づいたら笑いがこぼれていた。
「ふ、あは、」
「…リン?」
「もー、誉めても何も出ないよー?」
昨日までは冷凍庫にあったレンのチョコも、今ごろ回収されちゃってる。今日は、燃えるゴミの日だから。そうじゃなくても、もう渡す勇気なんて粉々になっていた。
「リン」
「っ痛!」
突然、右腕を掴まれた。すごい力だった。指が食い込んで痛い。
「その顔やめなよ。全然笑えてない」
身を捩ると、すぐに力が緩んで腕は解放された。掴まれていたところがじんと痺れる。レンが怒ってる。
「最近、元気ないじゃん。どうしたんだよ」
「……」
「無理に話せとは言わないけど」
「……」
「それ、テスト勉強じゃないんだろ?」
レンの手がゆっくり私の目元にのびる。それをぼんやり見ていたら、パーの形だった手が急にグーになった。ぐっと硬く握りしめるから、反射的に目を閉じた。殴られると思った。
ばちん、と額に鋭い衝撃が走る。目元にあったはずのグーは、いつの間にか額の前で人差し指を出していた。でこぴんされた。
「……痛いよ」
「うん。……ごめん」
見上げると、レンの目が泳いだ。さっきの腕といい、ひどい。
「女の子に手をあげるようなレンに育てた覚えはないんだけど」
「育てられた覚えもないです」
大きくため息をついて、レンは顔を背けた。そのまま腕時計に目を落とす。
「俺、ちょっと走って一本前の電車に乗る。テストまじでやばいんだ。最後の悪あがきする」
「……そ」
「あのさ、話す気になったら、いつでも聞くから。今更隠すようなこともないだろ?その……元カレなんだし」
苦笑いしたレンは、一度も私の方を見なかった。また明日な、そう言って走り出した背中を見送る。
「…………レンって、優しー」
棒読みの言葉が朝の空気に溶けた。
『朝早く行ってミクちゃんと勉強することになったから、しばらく一緒に行けない』
その日の夜、レンにメールしたら、俺も時間合わせる、という返事があった。始発だよ、と返したら、やっぱり遠慮する、と返ってきた。レンはあんまり朝が得意じゃない。無理して早起きしてテスト中に寝ちゃったら、死活問題だ。私だって、始発は無理だ。そもそも、そんな朝早くに学校は開いていない。
小さな嘘ひとつで、私は心静かな朝を手に入れた。
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最初リンミク風味になってレンが出てこなかったので、これはまずいと軌道修正して書きなおしたら少女マンガ展開に。ヨカッタヨカッタ。