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「マスター、これ!」
玄関で靴を履き終え、男が立ち上がると、少女は元気良く声をかけた。両手に黒い鞄を抱え、持ち手を掴みやすいようほんの少し踵をあげる。男は礼を言って、鞄を受けとった。それを見上げる少女の背中は、夫を見送る新妻……ではなく、主人に尻尾を振る仔犬を思わせた。留守番頼んだぞ、と主人が言えば、仔犬はピシッと敬礼する。
「頼まれましたっ、リンに任せて!」
張り切った大音声に、朝の空気が震えた。
朝っぱらからあんなに興奮して、疲れないのだろうか。レンが呆れる間に、リンは尚もマスターにまとわりついている。マスターは留守番の諸注意を並べ立てながら、白リボンの頭をわしゃわしゃとかき混ぜた。ますますもって犬である。
きゃんきゃんと騒ぐリンの声に、隣近所からの苦情を案じていると、ふいにマスターがこちらに目を向けた。レンが何か反応を返す前に、仕上げとばかりにリンの頭をぽんとたたく。続けて腕時計に視線を落とすと、慌ててドアノブに手をかけた。
「それじゃなるべく早く帰るから」
頼んだぞ、と二度目の言葉を残し、マスターがドアの向こうに消える。ドアが戻りロックがかかるまでの短い間に、廊下をバタバタと走り去る足音が聞こえた。リンが再び勇ましく返事をしていたが、最後のそれは自分に向けられていた気がする。
起動三日目。といってもリンが起動したのは一昨日の夜だったから、彼女にとってはほぼ二日目か。自分の方が半日分だけ経験が長いのだから、しっかりしなければならない。
リビングスペースの方へ踵を返すと、後ろからリンが追いかけてきた。
「マスターいっちゃったねぇ!」
「ん」
「留守番頑張ろうねっ!!」
「……リン、朝」
テーブルからリモコンを取って、マスターが見ていたテレビの電源を落とす。振り返ると、リンはきょとんとこちらを見ていた。
「朝?えと、おはよう?」
「……おはよ。あのさ、朝だから、あんま大声出すなよ」
起きぬけに交わしたはずの挨拶をもう一度してから、一応忠告をする。昨日から思っていたが、彼女は興奮すると声が大きくなるらしい。
「え、リン声おっきい?!」
「大きい」
これからこの家に厄介になるのだから、主人にも隣人にも迷惑にはなりたくなかった。元気なのは良いが、朝は抑えて欲しい。そう伝えると、リンは真面目な顔をして頷き、声をひそめた。
「ど、どのくらいで喋ればいいかな……」
今度は蚊の鳴くような声だ。極端すぎる。
「や、普通でいいから」
「普通……て、どのくらい?」
「だから…なんつーか、もっと大きくていいよ」
「でも」
唇を尖らすリンを手招いて、ソファに座らせる。自分も隣に座って、リンに向き直った。
「あーって言ってみ」
「あーー……」
「もっと大きく」
「あーっ」
「大きすぎ!」
びく、とリンが首を竦める。別に叱ったつもりはないのだが、リンは不安そうに瞳を揺らした。常識で考えてわかるだろ!と言いたいのを何とか飲み込む。だいたい、昨日は普通に会話をしていたではないか。
「俺が声出すから、同じ音量に合わせて」
「う、うん」
「あーーーーー」
「……あーーー」
声が重なる。やっぱり声質似てんだな、と昨日も思った事を確認して、レンは声を止めた。リンの声も戸惑ったように止まる。
「続けて」
「え、」
「一人で」
「う。……あーー」
似ているけれど、同じではない。リンの声の方が、くもりがなく澄みきった印象がある気がする。それも、昨日感じたことだ。
「もうちょっと大きく……そう」
しばらく聞いてから、レンは手をあげて止めた。リンが期待にあふれた顔でこちらを見つめる。
「合格」
「やったあ!!!!!……ぐ」
ぱしりとリンの口を塞いでも、部屋に響き渡った声は戻らない。レンの手のひらに密着した唇がもぐもぐと動いた。手を外してやると、必死の形相で口パクをしてくる。多分、ごめんなさい、だろう。
「……部屋、行こう。あっちならいいだろ」
廊下へ続く戸を開けて、リンを促す。ドアノブが、心なしか熱をもった手のひらに冷たい。リンは素直に短い廊下を進んで、突き当たりの引き戸を開けた。マスターにもらった二人の部屋だ。リンに続いて部屋に入り、戸を閉める。
「ぷはー!解放感!!」
リンが部屋の真ん中で、大きく伸びをした。
この部屋はマンションの一番端にあたるから、多少騒いでも良いはずだ。現に昨日一日、この部屋でマスターと歌っていた。上下階にどう響くかは分からないが、少なくともマスターは歌うくらいなら平気だと判断しているはずだ。
「マスターが帰ってきたら、最大音量の設定下げてもらいなよ」
「ねえ、ほんとに声そんなにおっきい?!」
「大きいって。昨日は普通だったのに」
思うに、今日のリンは張り切りすぎである。はしゃぎすぎと言ってもいい。しかし、ボーカロイドとして、自分で音量の調節もできないようでは困ると思うのだが…。
「マスターいつ帰るかなぁ」
「さあ。夜じゃない?」
「え。夜?!」
目をまんまるにしたリンを見て、気づいた。彼女はまだ留守番をしたことがないのだ。
「仕事だから、遅くなるよ」
「そっかぁ」
白いリボンが萎れる。面白い作りだ。ヘッドセットは取り外しもできるはずだが、どうなっているのだろう。と、リボンがぴょこっとはねあがった。
「ねっねっ、それじゃ何する?」
「何って」
「あそぼ!」
「…おう」
きらきら輝く青に見つめられ、レンは困った。遊ぶと言われても、この部屋にはパソコンもゲームもない。あるのは、畳んで隅に置いてある布団二組くらいだ。マット運動?まさかそんな。
いや、布団以外にも一つだけあった。
「…歌でも歌う?」
「いいねっ。歌おー!」
リンがクローゼットを空ける。中のポールには服どころかハンガーさえ掛かっていないが、昨日マスターに貰った楽譜が、床に重ねてあった。マスターはまだデータがないことを謝っていたけれど、代わりにと家にあった紙の楽譜をあるだけ出してきてくれたのだ。
「昨日より上手くなってさ、マスターをびっくりさせよーよ!」
「じゃあ全部じゃなくて、何曲かに絞ろう。どれがいい?」
「んーーー、じゃ、これ!」
リンの選んだ楽譜を受け取る。二人で歌えるようにと、マスターは楽譜を全て2部ずつ印刷してくれていた。ちょっと抜けたところさえなければ、なかなか良いマスターである。
「いけそう?」
「うん!」
せーので拍子をとって、息を吸う。始めの音を舌にのせて――けれど、聞こえたのはリンの歌声だけだ。出したつもりのレンの声は、音になっていなかった。リンが不思議そうに顔をあげる。
ピピピピッ。レンの頭の中で、無機質な音が響いた。これは、確か警告音だ。
「レン?」
「パスワードを指定してください」
こぼれた言葉は、レンの意思とは無関係のものだった。
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久しぶりに出せた!妄想→文章変換機がほしい。
マスターのイメージは、MMDの俺モデルです。
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